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鎌倉を調べる
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2007年4月8日(日)~4月15日(日)で鎌倉まつりが開催されています。

鎌倉まつりは、毎年恒例のおまつりで鶴岡八幡宮周辺で行われています。
静(しずか)の舞と流鏑馬(やぶさめ)など、鎌倉らしいイベントが行われます。

毎年30万人の人が、イベントに押し寄せるそうです。

静(しずか)の舞は、残念ながら4/8に終了してしまいましたが、
流鏑馬(やぶさめ)は、4/15の13時~16時に開催されます。
(流鏑馬(やぶさめ)の開催の有無は、鎌倉市観光協会(TEL 0467-23-3050)又は鎌倉観光協会ホームページで確認してください)

桜の見頃は過ぎてしまいましたが、鎌倉情緒を味わうにはすてきなイベントですよね。

流鏑馬とは?

流鏑馬(やぶさめ)とは、疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を射る、弓術の稽古・儀式のことを言う。馬上における実戦的弓術の一つとして鎌倉時代には武士の嗜みとして盛んに稽古されたが個人による騎射戦術が廃れた室町時代・安土桃山時代と時を経るに従い廃れた。しかし江戸時代に徳川吉宗により奨励され現在に至る。神社の神事としても多く行われている。通常2町(約218メートル)の馬場に、間をおいて3つの的を立てる。 射手(いて)は、狩装束をまとい、的が進行方向左手にくるように馬を疾走させ、連続して矢を射る。

馬上における弓術には他に笠懸(かさがけ)や犬追物(いぬおうもの)がある。 的と射手との距離を10~15間(約18~27メートル)に1つ置いたものを「笠懸」、竹垣で囲んだ馬場に150匹の犬を放して射手36騎が3手に分かれて犬を射るものを「犬追物」という。犬追物では、犬を傷つけないよう「蟇目(ひきめ)」と呼ばれる大型の鏑をつけた矢を用いる。
source:wikipedia
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鶴岡八幡宮はよく行くのですが、神奈川県立近代美術館には、今まで行ったことがありません。

日本初の公立近代美術館で、鎌倉館(鶴岡八幡宮横)以外にも、鎌倉別館、葉山館があるそうです。

鎌倉館は、白い建物でモダンな感じがします。(ちょっとだけ見かけた感想ですが)
この建物は、1951年に建てられたとのこと。もう50年以上前に建てられた建物にはとても見えませんよ。

葉山館は、松の木と浜辺に囲まれた海沿いの丘にそびえているようで、夕焼けなどもきれいなのではないでしょうか。

美術展示以外にも、オーシャンビューが楽しめそうな場所ですね。

次回、鶴岡八幡宮に行ったときには、是非、神奈川県立近代美術館にもよってみたいなと思っています。


鎌倉館(本館)
1951年、神奈川県鎌倉市雪ノ下・鎌倉八幡宮境内に開館。坂倉準三設計。1999年にDOCOMOMO日本近代建築20選に選出されるなど、美術館自体も日本を代表する近代建築として高い評価を受けている。

鎌倉別館
1984年開館。大高正人設計。主に常設展を担当する。

葉山館
2003年、神奈川県三浦郡葉山町に開館。海岸沿いに位置し、自然光や風景を展示室に取り込むなど、多くの実験的な要素を持つ。主に企画展を担当する。

source:wikipedia


神奈川県立近代美術館
鶴岡八幡宮周辺駐車場情報

鶴岡八幡宮近くの駐車場は、八幡宮から由比ヶ浜海岸に向かう道路の左側に多くあります。
警察署の手前までにあいているところがあればラッキーです。
平日は比較的あいていますよー。
一番近いのは、スリーエフの手前にある100円パーキングが近いです。

駐車場料金は、平日と休日で違いますが、駐車場間で違うことはない(2007年3月確認時点)ので、
目的の場所近くの駐車場を探されることをオススメします。

鶴岡八幡宮とは?

鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)は神奈川県鎌倉市にある神社。武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉八幡宮とも呼ばれる。

康平6年(1063年)8月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。永保元年2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。

治承4年(1180年)10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。建久2年(1191年)に、社殿の焼失を機に、上宮と下宮の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。承元2年(1208)には神宮寺が創建される。

源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、武家源氏(河内源氏)の氏神は、大阪府羽曳野市の壺井八幡宮から、鎌倉市の鶴岡八幡宮寺に移る。 鎌倉幕府衰退後は、25の僧坊の数も減少し、一時衰退したが、江戸時代に入ると徳川幕府の庇護を受け大規模化が進み、仁王門、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、弁天堂等を建築し、徳川家光の治世に薬師堂、鐘楼、楼門なども建てられた。また境内には、方五間の大塔、東照宮も存在した。

徳川幕府崩壊後、明治元年(1868年)3月13日に「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が明治政府から出され、また 明治3年(1870年)に大教宣布がなされると、鶴岡八幡宮においても所謂廃仏毀釈の動きが始まった。同年中に大塔などの仏堂は破壊され、仏像、仏具、什宝、経典なども破壊・焼却処分されるか散佚した。ただし一部は現存し、鎌倉寿福寺、浅草寺、普門院、五島美術館、東京国立博物館に保管されている。鶴岡八幡宮の場合、これらは神主に改名した十二院の社僧が中心となって行った。また、一部残存していた仏堂も、その後の火事で消失したが、外国人観光客が撮影した写真やスケッチが残されている。

source:wikipedia
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