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鎌倉を調べる
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鶴岡八幡宮といえば、みなさん、ご存じ、鎌倉のシンボルですよね。
八幡宮の石段は、61段ありますよ~。この間、上りながら数えてみました。
けっこう、急で、ぜひぜひはぁはぁします。
鎌倉に行ったときは、かならず、お参りします。

八幡宮に一番近い鳥居(三の鳥居)の左右には、源平池と言う池があります。
この池は、左の池(平家池)が島が4つ、右の池(源氏池)が島が3つで、源の栄え(産)を、平家の死を語呂合わせたと言われているそうです。

鶴岡八幡宮とは?

鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)は神奈川県鎌倉市にある神社。武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉八幡宮とも呼ばれる。

康平6年(1063年)8月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。永保元年2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。

治承4年(1180年)10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。建久2年(1191年)に、社殿の焼失を機に、上宮と下宮の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。承元2年(1208)には神宮寺が創建される。

源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、武家源氏(河内源氏)の氏神は、大阪府羽曳野市の壺井八幡宮から、鎌倉市の鶴岡八幡宮寺に移る。 鎌倉幕府衰退後は、25の僧坊の数も減少し、一時衰退したが、江戸時代に入ると徳川幕府の庇護を受け大規模化が進み、仁王門、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、弁天堂等を建築し、徳川家光の治世に薬師堂、鐘楼、楼門なども建てられた。また境内には、方五間の大塔、東照宮も存在した。

徳川幕府崩壊後、明治元年(1868年)3月13日に「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が明治政府から出され、また 明治3年(1870年)に大教宣布がなされると、鶴岡八幡宮においても所謂廃仏毀釈の動きが始まった。同年中に大塔などの仏堂は破壊され、仏像、仏具、什宝、経典なども破壊・焼却処分されるか散佚した。ただし一部は現存し、鎌倉寿福寺、浅草寺、普門院、五島美術館、東京国立博物館に保管されている。鶴岡八幡宮の場合、これらは神主に改名した十二院の社僧が中心となって行った。また、一部残存していた仏堂も、その後の火事で消失したが、外国人観光客が撮影した写真やスケッチが残されている。

source:wikipedia
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